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     歴史・戦跡

    vol.54 三池陣屋の眼鏡橋

    もと三池藩陣屋の大手門に架けられた石橋

     この橋は、大字新町にあったもと三池藩陣屋の大手門前の堂面川に架けられた橋である。
    橋の長さ11.5メートル、径間(アーチ差し渡し)6.8メートル、拱矢(アーチの頂上から基礎までの高さ)2.4メートル、幅4.3メートル、輪石(リングストン)26個に要石(キーストン)1個の27個で構成されている。石材は阿蘇溶結凝灰岩で、大牟田の東南部、櫟野地方に広く分布しており、普通「櫟野石」と呼称されている。
    この要石に「幸兵衛・伊三良」、その右四つ目の輪石「櫟野石工棟梁金兵工・棟梁脇幸兵衛・伊三良」と記銘されていることから、この橋の構築年代をこれら石工たちの生存年代と考える。
    また、棟梁脇幸兵衛は、櫟野の名工石丸幸助の長男として1831(天保2)年6月28日に生まれ、幸助が1851(嘉永4)年に亡くなると同年3月21日に家督を相続し、父の後を継いで棟梁脇石工となる。従ってこの橋の構築年代は1851年以降ということができる。
    三池藩では、6代藩主立花種周が幕府の要職の若年寄にあったが、1806(文化3)年、「勤柄不似合により隠居蟄居」を命ぜられ、伊達郡下手渡(現・福島県月館町)へ領地替えとなる。その後、三池藩は天領となり、日田大官・柳河藩預かりとなるが、1850(嘉永3)年になって半地復封がなされ、今山、新町、稲荷、下里、一部の五カ村が下手渡藩主であった立花種恭へ返還される。
    種恭は1852(嘉永5)年正月には三池へ帰国し、三池陣屋の再建に取りかかる。三池新町の人々は藩主の帰国を歓迎し、建設資金や資材を次々に献納し、8月には上棟式が行われた。
    やがて陣屋は完成するのだが、眼鏡橋にはこのあと取りかかった模様である。

    乍恐以書付奉願上候
    1.杉木二十本、但二尺廻り一丈一尺物
    1.竹十束、但し垂木竹位
    右者 追手口橋修復入用御拝領被下度
    此段奉願候    以上
    嘉永七寅閠七月

    新町組頭 作兵衛
    太 七
    別当 与  吉

      御役所

     眼鏡橋架橋について遺された唯一の古文書がこれである。
    では、眼鏡橋以前の橋はといえば、1841(天保12)年の陣屋縮図で見ると、八間幅の木橋が架けられていたといわれている。
    三池藩が廃され、44年後に再び復封されて、陣屋再建後、この橋は櫟野石工の手によって架橋された。

     

    ▼大牟田市大字新町▼JR大牟田駅から三池方面行きバスで三池新町下車、徒歩3分

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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