vol.60 紹運寺
三池藩の歴代藩主が眠る山里の地
1621(元和7)年1月、立花種次に一万石が再封され三池藩が成立すると、種次は三池新町に陣屋を構える一方、藩祖にあたる高橋紹運の名をとった菩提寺紹運寺を創建する。時に17歳であったが、もちろん伯父立花宗茂の援助があってのことである。
寺号を金剛山紹運寺といい、曹洞宗の寺である。正面左側に「不開葷酒入山門」の結界石柱が建っている。これは紹運寺第九代住職倪果山によって1726(享保11)年2月15日に建立されたものである。
山門とは「3つの解脱門」という意味で、一般的に貪欲、愚痴、瞋恚の3つを三悪道としてとらえ、こに三毒の煩悩を解脱するための修行の門で、酒やニンニクなどの臭いのするものを含んでの修行を固く拒んだのである。
種次は三池藩制確立後、肥後藩お預けの家臣の受け入れ、知行割などを精力的に行うが、1630(寛永7)年3月29日、27歳で逝去する。幕は、結界柱石の側を通り右手の石段を上りつめた正面にある。
その右手に「錬光院玉庵浄金」銘の墓がある。これあ平塚喜右衛門増次の殉死墓である。他の藩士の墓は一段下がった両面にあるが、この墓だけは藩主種次により添うように建てられている。
増次は、種次が沖端の立花館で病死したのを知ると、家の者に後事を託し、沖端に出立し種次の亡骸を拝し、翌3月毎日に自刃殉死する。
紹運寺前の道路を隔てた南側に法輪寺跡がある。ここは三池藩歴代藩主の墓地で、その墓の菩提を葬うため創建されたといわれているが、1874年7月9日の台風で本堂が破損したので、翌年12月25日に長崎県壱岐郡初山村に移転し、現在廃寺となっている。
ここには、種長、種明、貫長、長熈の歴代藩主の墓が並んでおり、その墓前には献灯者の石灯籠群が左右に配列され、墓を荘厳している。
この墓域からさらに右手奥へ登っていくと、藩の高祖高橋紹運の有角五輪塔の供養塔と顕彰碑があり、その傍らに宝満石屋城の戦いで戦死した家臣の供養塔がある。
その左側に「従五位下故主膳立花大通公碑」がある。これは、「七世孫出雲守種周」によって寛政己酉(1789)年12月に建立されている。書は三池藩随一の能率家といわれる芳賀貞(はがさだむ)が撰している。
この碑は、1617(元和3)年に江戸で亡くなった高橋直次の顕彰碑で、彼の人柄が剛健英武であったことなどが書かれている。建立者の種周は、1746(寛保3)年、長熈の二男として生まれ、長男早逝のため1762(宝暦12)年9月に家督を相続し、1792(寛政4)年9月に奏者番寺社奉行の要職に就任、さらに翌年には若年寄兼北辺防備総監となり北方領土の防備に努める。しかし、1805(文化2)年12月、江戸城中において蟄居隠居の沙汰書が申し渡され、伊達群下手渡(現・福島県月館町)へ転封され、1809(文化6)年10月、かの地で病没(墓は月館町耕雲寺。時に63歳、波乱万丈の生涯であった。
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