vol.62 法輪寺
敷地は市の指定文化財
法輪寺は上内樺にある黄壁宗禅寺で、第二代種俊から、代々立花内膳家の菩提寺として、鉄文禅師によって開山された。
立花内膳家は立花内膳政俊(諡は宗繁)を祖としている。政俊は、柳川藩主立花忠茂の実兄であり、島原の乱では三池藩主種長が年少であったため、替わって三池藩士を率い乱にのぞんだ。そして戦功があったとして、上内1千石を采地として宗茂より賜った。采地とは、同じ柳河藩でありながら独立した政治形態をとり、「国境もこれあり」といわれ、年貢米も内膳家へ納入されていた。
政俊は上内1千石を拝領すると、筑後・肥後の国境にある四ヶ峠の要所に位置する屋山に館を構え、荒廃した上内八幡宮を再建し、豊永村の神職矢野家より長子三郎衛門尉正敏を招き上内八幡宮の神職とした。また、1651(慶安4)年5月に春光寺を創建し、上内村の村民ほとんどを壇徒とし、村の統治にあたる。
一方では、柳河藩の忠茂が1639(寛永16)年4月に家督を相続して二代藩主となってからは、その相談相手ともなり藩政に参与する。1664(寛文4)年、57歳で逝去するが、墓は柳川市西町の法華宗台照院に「台照院殿瑤雄日源宗繁大居士」がそれである。寺号「台照院」とあるのは、もちろん政俊の法名からとったもので、政俊自身は熱心な法華教信者であった。
政俊の跡を継いだ種俊は、1669(寛文9)年、鉄文を開山和尚に迎えて法輪寺を創建し、上内内膳家の菩提寺とし、1697(元禄10)年5月27日逝去。法号「法輪寺殿嗣法雪関元徹大居士」、54歳であった。以後内膳家は黄檗宗となり、十代種整(後に弘樹と改名)の弟種寿まで256年にわたりここを墓所とした。
現在その墓は21基を数えるが、その多くは黄檗宗墓制にならい六角塔になっている。墓地は市の文化財に指定され、閑静な墓のたたずまいが当時の内膳家を偲ばせてくれる。
しかし、この上内でも1728(享保13)年には百姓逃散があった。柳河藩第5代藩主貞俶記によると、「享保13年上内村百姓共、同村の庄屋と一味して、村郷役(市兵衛)と訴論・・・」の結果、600人が南関へ逃散した。そして12人の頭取が処刑された。
その後、上内内膳家第4代種命の後室現成院によって一石一字塔が建立される。この塔は、享保年間におきた逃散犠牲者や大飢饉の餓死者の冥福を祈願したものといわれ、肥後領南関へ通じる唯一の主要路で、峠道へかかる前の通行人の一服する茶屋前であり、六百人の上内農民たちもこの道を通って南関へ逃れたといわれている。
その後、柳河藩では幕府から一万両を借り受け、小野若狭、立花内膳を臨時在方用掛となし、上内村のみならず柳河藩の窮民救済に努めた。1805(文化2)年には吉ヶ谷溜池を構築し、灌漑に寄与した。この溜池は現在も農業用水として活用されている。
▼大牟田市大字上内樺2248 ▼JR大牟田駅から西鉄バス南関行きで上内寺下車、徒歩30分
このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
このページにつきましては、「大牟田市役所主査・主任会」の許可なく写真、文章などの転載を禁じます。
リニューアル後、随時更新予定です。 製作・運営:大牟田観光協会