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     寺社

    vol.63 慧日寺

    中国の建設様式を取り入れた黄檗宗寺院

     大慈山慧日寺は岩本莵田にある黄檗宗の寺院で、柳川の梅岳山福厳寺第四代住職霊峰和尚が、久しく荒廃していた浄土宗永昌寺(栄勝寺)を、柳河藩主立花鑑任の許可を得て1705(宝永2)年に創建開山したものである。
     寺宝として、一寸八分の観音像がある。寺伝によれば、栄昌寺の一隅に円通庵という観音堂があり、無参という堂守がいた。ある日、野山を開拓中にこの観音像を発掘し庵室に安置していたが、藩主の知るところになり城中で篤く尊信していた。その後、五代藩主貞俶が大患の時、霊峰和尚の祈祷によって平癒したので、和尚が開山した時この観音像も返還されたといわており、今でも尊崇の対象となっている。
     本堂は、現存する棟札から1708(宝永5)年、霊峰和尚によって完成するが、狭隘であるため改築を計画、1745(延享2)年に改築が終わり、その直前に和尚は亡くなったようだ。
    さらに1839(天保10)年、第十三恵厳和尚によって大修築が行われたのが現在の慧日寺である。
     本堂は、京都宇治の黄檗宗本山万福寺にある中国建築文化をそもまま取り入れた重要な遺構であり、本格的な土間式仏殿は南筑後地方にはここだけに現存する貴重な有形文化財といえる。
     内部は、中央一間四方に円柱四本を建てて虹梁でつないだ上に格子天井をあげ、その周囲は化粧屋根裏となっている。奥壁は中央の間を高い板敷きにして仏壇とし、檀上に黒漆塗りの厨子を安置し、本尊観世音菩薩が祀られている。その横向かって左脇は土間になっており、開山和尚霊峰禅師の墓塔があり、その上の厨子に和尚の頂相像が安置されている。
     現存する半鐘の銘には、「永昌寺開山霊峰元秀、宝永2年京都釜座鋳造」とあり、また慧日寺馬場入口の結界石には「不許葷酒入山門」の碑があり、その裏側には「正徳2(1712)永昌寺沙門霊峰」とある。山門の「不二門」は1922年、第20代英厳和尚に建立にかかるものである。
    この寺の創建にあたっては、霊峰和尚の高徳を慕って日蓮宗より改宗した小野隆幸が一方ならぬ援助をしている。
     隆幸は後に、慧日寺殿嗣法の法号を贈られ、慧日寺の有力な檀越(施主)となる。小野家の墓地は境内の東にあり、隆幸の父真俊、祖父正俊の墓もここにある。この隆幸に養子に迎えられたのがあの有名な小野春信で、平野山を開坑して石炭採掘を始めた人である。
     春信の実父は、倉永崇勝寺境内に墓のある立花勝兵衛虎良であるが、15歳の時、藩主鑑任の命により隆幸の養子となる。18歳で大組頭、1701(元祿17)年家老となり、藩政に寄与した功績が認められ、1721(享保6)年、平野山村の山林数百町を賜ったものである。同年11月には平野石炭山を創業し、藩には運上銀を差し出し、藩財政を潤す。1754(宝暦4)年1月5日、逝去。72歳。墓もここ慧日寺にある。代々住職の墓もこの墓地の下方にある。

    ▼大牟田市大字岩本2589-1▼JR大牟田駅から西鉄バス上内行きで高田下車、徒歩5分

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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