vol.64 「仙台奥さん」の墓
「イボ観音」として祀られる箕形の墓
倉永法雲寺を前に登りつめた所に「仙台奥さん」の墓があり、毎日参詣する人が絶えない。
「仙台奥さん」とは、柳河藩二代藩主立花忠茂公の後室として嫁いできた奥州仙台藩伊達忠宗の娘・鍋子姫で、伊達正宗の孫娘にあたる人である。
夫人が1680(延宝8)年2月2日逝去すると、三代藩主鑑虎は母の遺骨を東京小石川徳雲寺と倉永上方の法雲寺に、それぞれ分骨して手厚く葬る。その1つが、「仙台奥さん」と呼ばれる「法雲院龍珠貞照夫人」の墓である。
夫人は和歌や書道に優れた才能があり、黄檗宗十哲の1人といわれる鉄文禅師に師事していた。
忘られぬひとふしや笛竹の
末の世なかをねに残るらむ
これが夫人の和歌の1つで、教養の深さを感じとらせる。その夫人が「イボ観音」として信仰の対象となり、墓前の霊水をイボのできている所に塗ると治るというので、今でも遠くから多くの人が参詣に来られる。また、実際に治ったという人の話も聞く。なぜ「イボ観音として」祀られるようになったかというと、次のような伝説がある。
「夫人が仙台から嫁入りした時、道具がたくさんあって、江戸屋敷では次から次に運び込まれる道具に困り、江戸家老はそれを片っ端から裏口へと運び出した。が、ただ1つ無いものがあった。それが箕であり、殿様から道具ばかりで箕(身)を忘れているといわれ、淋しい生涯を送られたという。そして自分がイボで苦しんだり、殿様から敬遠されたので、臨終に際しての遺言で、イボや家庭不和に苦しむ人々を身代わりとなって息をひきとられた。それで墓地も箕の形をしている」
夫人は、忠茂が1675(延宝3)年9月9日、64歳で病没して後、柳川城外の宮永に隠遁して観音信仰に精進され、解脱について鉄文和尚より知識に基づいた見解を得たといわれる。
しかし、墓が箕の形をしているのは、「身を忘れた」という伝説から来たのでなくて、これは黄檗宗の墓の造り方で、宇治万福寺の隠元和尚の墓もこの造りであり、法雲寺の鉄文和尚の墓もこの造りである。中国福建省にある黄檗宗の墓地もこの形が多いらしい。
従って夫人の墓も、この新しい黄檗宗文化の1つである墓制に基づいて建設されたものといえる。
夫人の墓の側には、1678(延宝6)年3月に逝去した五男・立花大膳宗満の墓もあり、夫忠茂につづいて愛息まで失った晩年の夫人の悲しみが伝わってくる。
鑑虎は、母の菩提寺として、弘済寺跡にその院号をとって法雲寺を創設し、寺領50石を与え夫人を供養する。近くには弘済寺を建立した清田氏一族の墓12基の墓地があり、同地には鍋子姫に付き添ってきた家臣たちの墓といわれるものもある。
清田氏は大友能直を祖とし、十五代正成が立花宗茂の家臣となり、倉永の地一千石を拝領し、この地に在住した。
▼大牟田市大字倉永龍首山麓 ▼西鉄電車倉永駅下車、徒歩20分
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