vol.66 倉永諏訪神社
倉永諏訪神社
倉永諏訪神社の祭神は建御名方神、八重事代主神、奴名河比売神の三柱で、境内神社として稲荷神社、山田神社、荒神社、住吉神社の四神社がある。
由緒については、昔、杉野孫四郎という人が三夜夢を見て渡瀬より三個の神体を得てこれを祀るとあり、1628(寛永5)年に神殿を建設し、3月15日鎮座し、1873年3月14日に村社に定められたことになている。
神社境内にある明治時代の郷土史家である角省吾による「諏訪神社碑」には、喜暦(1326年)以前に創建、寛文年間(1661-72年)に修造したとあるが、その詳細についてはよくわかっていない、と記してある。この碑文のもとになる古文書も神官松里家に保存されている。
倉永には、荒田比貝塚、毛無貝塚の遺跡があり、縄文時代から漁労や狩猟を主とした人々が生活を営んでいた。ここは甘木山を中心とする丘陵がなだらかに東西に延び、西の黒崎に落ちこんでいる舌状台地で、青龍山古墳、甘木山古墳、茶臼塚古墳、倉永古墳、舟形石棺の出た蜜柑山古墳、最近では前方後円墳の黒崎観世音塚古墳など古墳時代の遺跡もたくさんあり、この地方に一大豪族が居住した可能性がある。
歴史時代に入ると、三毛郡は米生、砥上、十市、日奉の四郷があったことが平安時代、源順が編纂した「倭名類聚鈔」という本の中に書かれているが、倉永がどの郷にぞくしていたかは記録にはない。
中世になると、倉永名として三池北郷にあり、一時相良氏の所領もあった。
諏訪神社には三枚の棟札が遺されている。
(1)諏訪大明神宝殿一宇大檀那従四位侍従立花左近将監源朝臣忠貞公(忠茂)御地頭清田大膳源正登 神主松里安右衛門
建立年が記されていないが、忠茂が侍従となるのが1654(明暦3)年、倉永にある清田家墓にある源正登の没年が1666(寛文6)年であることから、立花氏入国後の1654年から1666年の間に新宝殿が建立されたことが分かる。そして現在も神官職は松里家に引き継がれている。
(2)元祿四(1697)年大檀那柳河城主従四位立花飛騨守源朝臣宗尚公(四代鑑任)宝殿一宇再興筑後三池郡倉永村諏訪大明神
(3)嘉永7(1854)年領主従四位立花飛騨守源朝臣鑑寛
1859(安政6)年の冬には、櫟野石工池松次作、三池町三朗による灯籠も神殿と拝殿の間にあり、1905年の春には先にふれた角省吾が七十歳の時建立した「諏訪神社碑」、1889年・倉永杉野伴之助、1911年、杉野伊之吉による百人一首の絵馬が奉納してあり、諏訪神社に対する倉永の人々の尊崇の念の大きさを感じる。
倉永は古くから「倉永七尾、七井戸、七天神」といわれ、七つの尾を持つ稜線に七つの井戸とそこに天神を祀った。そして諏訪神社とその下にある御手洗の井戸を中心に人々が生活していた。
▼大牟田市大字倉永字御手洗 ▼西鉄倉永駅から徒歩30分
このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
このページにつきましては、「大牟田市役所主査・主任会」の許可なく写真、文章などの転載を禁じます。
リニューアル後、随時更新予定です。 製作・運営:大牟田観光協会